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第28回 車夫一代  
                難波 利三 
                    引用は文春文庫 版 より
 
 平成16年7月20日付けから7月25日付けまでの島根日日新聞に掲載

江波 島根県出身の作家は? と聞かれると何人か思い浮かぶのですが……。
春岡 たとえば、難波利三さんもそのうちの一人です。温泉津町の方ですが、時々島根にも帰って来られるようです。
江波 そうですね。まず、難波利三という名前の読み方ですが、「なんばとしぞう」という読み方はペンネームとしての読み方で、戸籍上は「なんばとしみ」となっているようです。
春岡 文字は同じですが、読み方が違うという例は、松本清張などがそうですね。
江波 キヨハルが本名で、セイチョウがペンネーム。
春岡 ほかには、菊池寛の本名はヒロシですし、井伏鱒二は、本名が満寿二でマスジだから、これは同じ読みということに。
江波 調べてみると、なかなかに面白いですよ。ところで、難波利三さんは、昭和十一年九月生まれで県立邇摩高校の卒業です。その後、そろばん塾の講師などをして、関西外国語大学に入りますが、結核で療養所に入り、そのときに書いた小説が、小説新潮の懸賞に入選します。昭和四十年に退院し、英語塾をしながら本格的に小説を書き始めるのです。昭和四十七年に、「地虫」がオール讀物新人賞、同時に直木賞候補作になります。以来、大阪の底辺の人情を描き続け、「雑魚の棲む路地」、「天を突く喇叭」などで直木賞の候補になること五回。
春岡 すごいですね。
江波 そうなんです。昭和五十九年に候補六回目にして「てんのじ村」で第九十一回直木賞を受賞してデビューということです。著作には、「天皇の座布団」、「漫才ブルース」、「大阪笑人物語」、「イルティッシュ号の来た日」、「舞台の恋人」、「芸人横町花舞台」などがあります。
春岡 その中で、「イルティッシュ号の来た日」というのは、江津が舞台ですね。
江波 明治の終わりに、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊の一隻が日本海の江津沖で沈没して、乗組員三百名近くが江津に上陸、というか捕虜になったのです。
 そういう話が小説になっているのですが、江津の和木公民館には展示物があるようです。
春岡 温泉津の人だから書けたということでしょうか。
江波 郷土への思いということではないかと考えたりもするのですが。
 それはともかく、現在、大阪の堺市に住んでおられて、日本推理作家協会、日本文芸家協会、日本ペンクラブなどに所属です。それに、元大阪府教育委員でもあるんです。
春岡 何か教育に関係したことでも?
江波 どうなんでしょうか。小説とは直接に関係は無いかとも思いますが、森の会というのに参加しておられるんです。山林の保護育成ということで。
春岡 作家と森林保護ですか。
江波 森の会というのもユニークな活動です。平成八年に出来た会のようですが、その時に、大阪府知事との対談があって、「人生、生きているうちに一本だけでも、木を植えようやないか。ささやかでも前向きに一本でも木を植えて……」という話があったとか。
春岡 作家のイメージとして、部屋に閉じこもって書いてばかりいるという感じがあるのですが、確かにユニークです。
江波 ところで、「天皇の座布団」に載せられている「車夫一代」は短編小説で、原稿用紙約九十枚です。短編というのは、だいたい五十枚程度をいうようです。ですから、この車夫一代は、やや短編としては長い方かもしれません。
春岡 あらすじはどうなのでしょう?
江波 岩吉という車夫、車曳きが登場します。現代でいうタクシードライバーでしょうか。岩吉は軍隊から帰って来て、父が残した人力車で生計をたてようとします。岩吉は、人力車を曳きながら、道路で出会う他の人力車と競争するのが常だったわけです。今でも、車に乗っているある種の若い人なんかは抜きつ抜かれつというように無意識に競争意識が働くこともあるようですが、それと同じ気持ちなのでしょう。
春岡 人力車の競争というのも、なかなか時代を思わせて面白いですね。
江波 岩吉は、松江にある個人病院の専属の車夫であったわけですが、競争好きがたたってその医院を解雇され、芸者屋の専属人力車夫になります。それも長続きせず、今度は、組合に入って街頭曳きという、今で言う流しのタクシーですが、そういう仕事をするようになります。しかし、これも同僚とうまく折り合いがつけられず、今度は組合に入らない流しの人力車曳きになり、いろいろな事件に出合います。そうこうするうちに時は流れ、車の時代になります。岩吉はそれをかたくなに拒否し、最後は乗り合いバスと人力車で競争をして、車に脚を引かれるのです。人力車が曳けないようになり、死ぬまで人力車を曳く夢を持ち続けながら病気でなくなるという……。
春岡 この小説の舞台は松江ということですが、時代は明治ですね。
江波 明治十年代という設定です。ですから、いまからもう百二十年ほど前ということになります。
春岡 ということになると、その頃の松江の様子が書いてあるんですね。
江波 そうなんです。松江の様子ということもですが、出雲であれ、平田であっても同じだったと思われる当時の時代背景が書かれています。
春岡 人力車が走るというのもそうですし、その頃にどういうことがあったかということが小説によって分かるという……。
江波 舞台が明確になっていると、特にそういうことがあると思います。
春岡 取材をされたということですか。
江波 この作品について、難波さんから手紙をもらったことがあるのですが、これを書くにあたって、当時の島根県警察で交通関係の資料を特別に見せてもらわれたのだそうです。
春岡 そうだったのですか。
――「野郎っ」
 魚町を抜けて大橋川へさしかかる通りへ出たとき、橋のたもとの緩やかな勾配を登っていく人力車を見つけ、岩吉は梶棒を握りしめた。宍道湖から差す夕陽を真横に浴びて、前の人力車の蝋色の幌が燃え立って見える。背面に大きく刻まれた赤、緑、金の三色入りの八岐大蛇が、車体の震動に合わせて生きているように揺らぐ。重い荷を積んでいるらしく、車輪の回転は鈍い。
(よし、今日こそは負けんでの)
 目で追いながら、岩吉は両手に唾を吐きつけて梶棒を握り直し、前かがみになって力を込めた。――
江波 ここに出てくる橋というのは松江大橋で、魚町を通ってということですから、南から北に向かっています。今の松江大橋は、昭和十二年に完成しました。十七代目です。松江大橋という名前が付けられたのは、明治七年に架け替えられた十一代大橋からで、それまでは、白潟橋とかカラカラ橋などと呼ばれていたようです。
――松江は比較的に坂の少ない街だが、この橋のたもとではいつも難渋する。鉄の車輪で小石を撥ねながら、一歩ずつ登りつめた。
 岩吉が曳く横田医院の人力車の背には、丸に三つ星の金色の家紋が刻まれている。医家はどこでもそうして紋所を入れるのが慣わしだが、前を行く緒上整骨院の人力車だけは、風変わりな彫刻を施して異彩を放っていた。
 近ごろの流行りで、丸型に龍、虎、鳳凰などを彫って色漆を塗りつけた飾りは数多く見かけても、八岐大蛇をひけらかした人力車は、この松江の街にはない。それだけに人目にも立ち、それが通りかかると通行人達は足を止め、家の中から女子供まで首を覗かせて物珍しげに眺めた。――
春岡 こういうのが通れば、それもひっきりなしというわけではないでしょうから、見事なものだったのでしょう。
江波 長距離の大型トラックなどで、時々派手な絵が描かれているのを見ますが、昔も今も同じということでしょうか。
 ということで、岩吉が競争を始めます。――橋の上は湖からの風が吹き抜け、忙しなく幌をはためかせる。うつむき加減に顎を引き、饅頭笠の陰から前方の気配を窺いながら慎重に足を運び、次第に距離を詰めて行った。
 坂を登り切った地点で、岩吉は一つ深呼吸した。――
春岡 緊迫した場面ですが、ある意味で長閑ですね。
――「お嬢さん、気をつけてやりんさいよ」
 座席に向かって大声で注意を促すと、思い切り右に梶を切り、前へ飛び出した。
「なにするかね、岩吉!」
「不意に前へ出たりして、危ないだで」
 娘と、八岐大蛇の男が同時に鋭い叫びを上げた。――
江波 会話がありますが、やや違和感がありませんか?
春岡 石見弁ですね。難波さんは温泉津だから、どうしてもそうなるのでしょうか。
江波 実は、このことについても難波さんに尋ねたことがあるです。そうしたら、何人かの方から、使われているのは出雲弁ではなく、石見弁だと指摘があったそうです。
春岡 やはりそうですか。
江波 そして、岩吉と相手の人力車を曳く男が取っ組み合いの喧嘩をします。ところが、その間に宍道湖からの風にあおられて、岩吉の人力車がひっくり返りそうになるのです。危うく押さえつけますが、乗っていた医院のお嬢さんの着物と腰巻きが……。
春岡 はあ……。
江波 このことがあって岩吉は、横田医院を解雇されます。横田医院の主人は、娘を街中のさらしものにしたと言って、槍を取り出して怒ったと書いてあります。
春岡 それはそうでしょう。
――岩吉が人力車を曳くようになって、二年余り経つ。
 歩兵隊で三年間の兵役を勤め、明治十四年に解除されてから、父のあとを継いで車夫になった。東京の鈴木徳次郎、和泉要助、高山幸助らによって明治二年に考案された人力車が、松江に入ってきたのは五年後の明治七年、岩吉が十六歳のときだった。
 百姓だった父は、その年の夏、売布神社の傍にある漢方店へ千振を売りに行き、家へ戻るなり、
「今日は奇妙な乗りものに出会ったでや」
 と、手ぶりを加えながら母と岩吉に話した。
「絵双紙に画かれとる牛車と似た形での、大きな二つの輪の上に箱みたげなものが載せてあって、その中へ人を乗せて、人が曳きよる。牛じゃないだでや。腕車だら、力車だら、人力車だら、いろいろな呼び名がついとっての、近ごろ東京の方じゃ大流行だちゅうことだが、わしゃ見るのは初めてだで、たまげたのう。松江にも、はあ十台近う入っとるそうなで」
 ひと息入れてから、
「あれが、文明の利器ちゅうもんかいの」
 と感じ入ったように腕組みし、しきりに首をひねった。――
江波 これも史実として的確です。
春岡 現代風に言えば、車を買って個人タクシーをしようということでしょう。
江波 小説にあるように、明治二年に東京で八百屋をしていた鈴木徳次郎、車の職人の高山幸助、福岡の藩士であった和泉要助などによって発明されて、翌年の明治三年三月に東京の日本橋で初めて営業をしたそうです。最初の人力車は、四本の柱を立てた箱に車輪と屋根を付けたようなものでしたが、明治六年には車体にスプリングを付け、幌や長い梶棒を付けたものに改良されました。それから普及するのですが、明治二十二年頃から、木で作った輪に替えてゴム輪になって、それこそ今で言う自家用車に使われます。明治四十五年、つまり大正元年には空気入りのタイヤのものが出たということのようです。
春岡 乗り心地は、よくなったでしょう。
江波 ところが、車を賃借りする車夫達にとって、賃借料の値上げが大問題で、廃業する者も出たとか。
春岡 大正時代には、自動車が出るのではないでしょうか。
江波 そうなんです。大正九年頃から市内電車や自動車が発達して、特に大正十二年九月の関東大震災の後、タクシーが増えて来たのです。
春岡 そんな時代がしっかりと書いてあるということですか。
江波 岩吉の父は、田んぼを売ったりして人力車を手に入れ、商売を始めます。
――岩吉が人力車を見たのは、それが初めてだった。
 明治三年に営業としての国の正式許可が下り、東京の日本橋河畔で開業された当初の人力車は、大八車に四本柱を立て、日覆をつけただけの不格好な体裁だった。それに馬車を真似て箱形の座席を設け、開閉自在の幌も装備されるなど、急激に改良が加えられ、岩吉の目に触れたころには、スプリングもとりつけられ、曳き手の扱い方次第で重心が自由に保てる程、機能的にもまとまったものになっていた。
 白い幌に黒漆塗りの座席と梶棒。その先端の鷲のくちばしを思わせる金具は黄金色に輝き、木の車輪に張られた鉄が銀色を放つ。いかにも豪勢な設えだ。――
春岡 明治のことですから、凄いものだったでしょうね。
――床几山のふもとの家から、父は毎朝、人力車を曳いて松江の街中へ仕事に出た。夕方、戻って来るなり、車輪を水洗いして泥を落とし、金具類を糠袋で丹念に磨く。それから納屋の横に建て増した杉皮作りの小屋にしまうと、その前で一つかしわ手を打った。――
江波 車を大事にしている、今の人達と同じですね。
春岡 昔も今も同じ……。
江波 当時の世相が、よく分かります。
――そのころにはまだ駕籠がいくらか残っており、集落の世話役達は街へ出掛けるときなど利用していた。
 しかし、人力車が走り出すようになると、たちまち姿を消してしまった。
「今日、天神町のところで、前を行く駕籠を見つけたもんだけに、後からすーっと追い抜いてやると、口惜しがっとったで。まんだ、あがあな時代遅れのものに乗る者がおるだけにな、頭が古いでや」
 夕食のとき、父は心地よさそうに、そんな話を聞かせたりした。――
春岡 それはそうでしょう。しかし、駕籠と人力車が共存していた時代もあったのですね。
江波 岩吉の父は、街頭曳き専門で一生を終えます。明治十二年、岩吉が軍隊に行っている間に亡くなったのです。
 岩吉は兵役を終えると、自分も車夫になろうとします。ところが、車を点検してみると傷みが激しく、修理屋は買った方がよいと言います。岩吉は仕方なく、自家用の車夫として住み込みで働くことにします。
 小説では、続いていろいろな当時の社会的な騒動などが書かれていて、大変に面白いのです。
春岡 あらすじでは、岩吉は車と競争したということでしたが……。
江波 そうなんです。車の時代になっても、岩吉はそれに馴染もうとしません。つまり、車のドライバーにはならなかったということです。しかも、人力車でバスと競争をして脚に怪我をし、病気でなくなります。岩吉の葬式の日は、ちょうど次の時代、つまり大正改元の日であったのです。
春岡 非常に面白い小説です。
江波 乗り合い自動車、つまりバスですが、出雲今市と浜田の間を初めて走ったのは、明治四十五年二月七日のことだということも書いてあるのです。明治の最後の時を、時代の流れに逆らいながら、そして、文明の利器に抵抗し続けた男の物語りです。
春岡 図書館にあるでしょうか?
江波 私は東京の古書店で手に入れたのですが、ほかには埼玉福祉会というところから大活字本も出ています。
 ところで、このシリーズは長い間、続けさせていただきましたが、今回で終わろうと思います。
春岡 今年の一月から連載でしたね。
江波 もちろん、まだまだ数多くの郷土に関した小説があるわけですから、探して読んでいただければと思うのです。言い足りないことも随分とありましたが、春岡さんには、お付き合してもらいありがとうございました。また、読者の皆さんに読んでいただいたことを感謝しています。
春岡 多分、新しい企画を始められると思いますので楽しみにしています。では……。


江波潤一 & 春岡直美 より
長い間、ご愛読いただきありがとうございました。『江波さんの出雲小説図書館』は、
第28回で終わりにいたします。