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第7回 湖に佇つ人
夏樹静子/引用は 「駅に佇つ人」 所収 「湖に佇つ人」講談社文庫より
平成16年2月23日掲載
春岡 二月も終わりの週になりましたが、一月は行く、二月は逃げる、三月は去る、などと言いますが早いものですね。 江波 閏年逃げる二月を追いかける……。 春岡 何ですか、それ。 江波 いえ、ちょっとひねってみただけです。つまらないもので。ところで、前々回に続いてまた宍道湖関係の小説で、夏樹静子の「湖に佇つ人」という短い作品です。佇つという文字は、たたずむ、たつ、たちどまる、というような意味があるので、たつ、と読んでもいいわけですが、なかなかに味わいがあります。 春岡 そうですね。ただぼんやりと立っているのではない、という感じがよく出ています。湖という文字の読み方もですが。 江波 小説にしても随筆を書く場合でも、タイトルというのは、工夫しなければいけないという良い例ではないでしょうか。 春岡 つまり、湖は宍道湖ということですが、夏樹静子という人は推理小説作家ですから、宍道湖を中心にして殺人事件が起こるということでしょうか。私の推理では。 江波 さすが、フリーライターの春岡さん。推理的中です。 春岡 いえ、さすがというほどではないですけど、大体に先生の考えておられることは分かります。 江波 恐ろしい……。 春岡 冗談ですよ、心配しなくてもいいです。それで……。 江波 夏樹静子という作家は、一九三八年、昭和十三年の東京生まれで、今年で六十六歳ということになります。初めて推理小説を書いたのは、慶応大学英文科三年の時に、お兄さんがトリックと書き出しのストーリーを思いついて後は、お前が書いてみろ、と言ったんだそうです。夏樹静子は日本女子大学附属高校の頃から主に翻訳の推理小説を読みあさっていたようですが、自分では小説を書くなどとは思ってもみなかったらしいですね。それはともかく、その三分の二ばかり書いた頃、慶応の推理小説同好会の会長が、それを見て、江戸川乱歩賞に応募しないかと言ったんです。締め切りまで約十日でした。 春岡 それで、どうなったのですか。 江波 結局その年は、該当なしだったのです。しかし、「すれ違った死」というその小説は、江戸川乱歩賞の最終候補に残こります。ともかく、最終候補に残るというのは、賞に入ったと同じだと思うんです。以後,NHKの『私だけが知っている』という番組の執筆レギュラーを三年間務めました。デビュー作は、昭和三十七年の『宝石』という月刊雑誌に掲載された「ガラスの鎖」です。二十代でということですが、有力な女流新人作家として世に出るわけです。 |
平成16年2月24日掲載
春岡 二十代でデビューというのは、この間の第百三十回芥川賞を受賞した若い二人と同じで凄いですね。 江波 そうですねえ。二十歳の若い人が書けるということは、逆に高齢の人でもあり得るということに……。 春岡 はあ、……かも。 江波 それはともかく、「湖に佇つ人」ですが、この小説は、『駅に佇つ人』という標題で、「雨に佇つ人」と標題作、標題作というのは、その本のタイトルになっている作品名ですが、その「駅に佇つ人」「闇に佇つ人」、「湖に佇つ人」という四つの短編による本です。「湖に佇つ人」は、長さから言うと原稿用紙にして百十枚ですから、短編と言ってもいいかと思います。他の三編も同じくらいの長さです。 春岡 そうですか。「湖に佇つ人」を、本の標題にして欲しかったですね。この地方に住んでいる者としては。 江波 そうですよね。自分の住んでいる所が小説に出ると、親しみがありますし、風景、情景、人情までも浮かんで来ますし。 春岡 ということで、舞台は宍道湖などということになりますか。 江波 というか、宍道湖周辺、松江や日御碕も登場します。 春岡 ストーリーはどうなんですか? 江波 松江の古くからある旅館、名前は「加賀山」と言い、女将は操という名ですが、そこに『月刊旅路』という旅行雑誌の編集者、上滝ユキ子とカメラマンが取材に来ます。上と滝と書いてコウタキとは、ちょっと読めないですが。 春岡 登場人物の名前は、どのようにして決めるのでしょうか。 江波 作家の渡辺淳一は、姓も名も魅力的なイメージを抱かせるものを考えるのは、タイトルをつけるのと同様に難しくて悩む、と、ある本に書いていましたし、迷ったり悩んだりすると、学校の卒業生名簿から適当な名前を探すとも言っています。 更に、登場人物で気性が強いとか、きちっとした感じの女性には、キリコというように母音に(i)が付く文字を入れるようにしている、などとも書いてありました。 春岡 そうですか。小説を読む場合には一ページに何度も出てくるわけで、漢字の形とか読み方から来る印象というようなことからすれば、ストーリーや描写以上に考えるべきことかもしれませんね。 江波 そうですよ。春岡さんの直美というのは小説的です。 春岡 褒められたのでしょうか、どうなんでしょう。えっと、ストーリーですが。 江波 あ、そうでした。加賀山という旅館の女将が、一畑薬師の駐車場で、夫以外の男と逢っています。 |
平成16年2月25日掲載
春岡 書き出しは、どうなんでしょう。 ――島根県松江と、出雲大社を結んで、一畑電鉄という昔懐しいような二輌編成の電車が通っている。始点の松江温泉を出ると、線路は宍道湖の北岸に沿い、通称湖北線と呼ばれる国道四三一号線とほぼ並行して西へのびていく。―― 江波 松江温泉と書かれていますが、この小説が書かれたのは昭和六十二年ですから、現在の松江しんじ湖温泉駅ではないですね。季節は夏、そして、夕暮れです。宍道湖の情景が書かれています。 ――晴れた日の静かな美しさと、いったん風が吹いた時の荒荒しい様相との対照が、また不思議な魅力だといわれる湖水であった。 松江温泉駅から二十五分ほどの一畑口駅では、客が一人降りただけだ。通勤通学客の帰りにはまだ少し早い時刻で、もともと二輌の車内はガラガラだった。―― 春岡 そこで女が降りたのですね。小説ならそうなります。 江波 鋭い推理です。確かに女が降りました。三十半ば位の立ち姿がすらりとした大柄な身体で、クリーム色の地の小紋の絽着尺を着こなしています。そこに、男の運転する小型車が寄って来て、女を乗せて一畑薬師に向かって行ったのです。これが冒頭です。 春岡 編集者の上滝ユキ子が、松江の加賀山旅館にやって来るのでしたね。 ――「この石は来待石と申しまして、島根の特産でございます」 緋毛氈を敷いた廊下のつやつやした石を指さして、操がさりげなく教えてくれる。 エレベーターで三階へ。 十六畳の座敷へ足を踏み入れた途端、 「わあ、きれい……」 ユキ子は素直な嘆声をあげた。開け放たれたガラス戸の下、宍道湖が一望にひらけていた。周囲四十四キロ、日本で六番目の大きさの汽水湖が明るいブルーに輝いているが、対岸のあたりには、うっすらと靄がかかっている。 「山陰に独得の霧ですね。秋や、梅雨時にもよく発生します。お天気がゆっくり下り坂になっているようですけれど」 操がユキ子の視線を追って、ことばを添えてくれる呼吸はさすがだった。―― 春岡 当然ですが、松江の街の様子も書かれていますね。 ――松江の街は宍道湖と中海の間にひらけ、二つを結ぶ大橋川によって南北に区分されている。宍道湖大橋、松江大橋、松江新大橋、くにびき大橋と、川の名の通り、西から順に大きな美しい橋が架って、盛り場もその袂に発展していた。 |
平成16年2月26日掲載
江波 編集者の上滝ユキ子に同行しているカメラマンの森は撮影に行き、終わってから大橋北詰めの商店街にある煉瓦作りの北欧風の喫茶店で落ち合います。 春岡 京橋の袂にある喫茶店で、堀川に張り出したようになっていますね。これも小説によく登場しますが。 江波 一時期、堀川の景観から言うと不都合だという話もあったのですが。その喫茶店で上滝ユキ子とカメラマンの森は、二人の男が金の貸し借りのことで、言い争っているのを聞きます。 春岡 少しずつ事件らしくなりますね。 ――七月十七日木曜の正午すぎ、松江とは平田市を挟んで西隣になる大社町の警察署を、二台のパトカーが出発した。朝から夕立のような雨が叩きつけたり、また薄陽が洩れたりする不安定な空模様で、署に隣接する出雲大社の参道にもほとんど人影がない。時ならぬサイレンが、大鳥居の奥の神社の森に反響した。 先行車の助手席には、大社署刑事課長の平石警部が、肉付きのいい額を引きしめた昂揚した面持で、時折また雨滴が打ちつけるフロントガラスを睨んでいる。―― 江波 木曜の十七日というと、昭和六十一年の七月がそうです。この本は翌年の九月に出ていますが。 春岡 そんなことまで調べられたのですか。凄いというか……。 江波 作者が正確に書いているかどうか、確かめたのです。 ――県道二九号線は間もなく海岸線に出た。左手に崖が落ち、その下には灰色に波立つ日本海、右側には山が迫って、こちらも険しい断崖が切り立っている。大山隠岐国立公園の西端、日御碕まで通じる道路である。―― 春岡 日御碕で殺人事件ですか。 ――やがて道路は二股に岐れるが、パトカーは右手の、海岸線から離れて内陸部へ入っていく道をとった。 こちらは旧県道で、現在ではほとんどの車が海寄りの新道を走っている。いずれは日御碕で合流するのだが、アスファルトの傷んだ幅十メートルほどの旧道には、両側から雑木林が影を落とし、深い山中にでも分け入っていくような寂しい雰囲気だった。人家もないが、ところどころに空き地や、うち捨てられたような小屋が建っている。―― 江波 車が三台止まっていて、濃紺のベンツの脇に男が倒れ、男と女が居ます。男は加賀山旅館の加賀山譲吉で、女は玉造温泉のクラブ・セゾンのママで青木定子。 春岡 いよいよ……。 江波 ベンツは加賀山の女将が運転していて、ここでパンクした。それを譲吉が取りに来たのです。 |
平成16年2月27日掲載
春岡 クラブのママとですか? 何やらにおいますね。 江波 ママと譲吉は、気のおけない付き合いだった、と書かれています。そのママに乗せてもらって来た。そこで加賀山譲吉は男に襲われたが、逆に持っていたレンチでやり返す。ところが加賀山は、襲った男を知っています。米子で金融業をしている沖という男で、金融取引があったのです。 春岡 複雑になりましたね。 江波 そうですね。なぜ加賀山がパンクを直しに来たことを襲った男は知っていたのかとか、ママと金融業の沖との三角関係か。 というところで場面が変わります。 ――石灯籠と築山を配した日本庭園に向かう加賀山の茶室からは、出雲空港へ降りる旅客機が、宍道湖の上を低空で横切っていくのが見えた。―― この茶室で、女将のお点前を撮影することになっているのです。そこへ大社の警察署から、主人が人を殺したという知らせが入ります。 警察でいろいろ聞かれるのですが、女将の操と米子の金融業者沖は同級生だったことが分かります。しかも、旅館の改築のために金を借りていた、というか、借りるについて便宜を図ってもらっていたのです。 春岡 ところが、女将と沖はそういうことから、ある意味で親しくなった、と私は推理します。 江波 なるほど……。警察も同じような推測をしますね。 ――七月十七日の夜、上滝ユキ子はまだ加賀山旅館に逗留していた。予定通りなら、今夕五時半の飛行機で帰京するはずだったのだが、思いもかけぬ事件の発生で、編集長に電話して成行きを見守りたいがと相談してみると、もう一泊の延長を認めてくれた。カメラマンの森だけ先に帰した。 出たばかりの夕刊を一揃え買ってきて、目を通してみたが、まだ簡単な記事しか載っていなかった。松江の加賀山旅館社長の加賀山譲吉が日御碕の旧県道で車のパンクを修理中、暴漢に襲われたが、たまたま手に持っていたレンチで反対に相手を殴り、その結果暴漢が死亡した。―― 春岡 松江の夕刊ですか。島根日日新聞では? 他に松江に夕刊はないですよ。 江波 ……かもしれませんね。それはともかく、ユキ子は煉瓦作りの喫茶店で聞いた男達を思い出します。二人の男は加賀山と金融業者ではないかと。 ――三人の背後関係……ユキ子はドキリとした。沖と加賀山と、沖とは高校の同級生だった加賀山の妻との三角関係を示唆していたように、直観的に感じられた。するとそれは何を意味するのか?―― |
平成16年2月28日掲載
春岡 結末は、意外な形になりそうですね。 江波 そうですね。ユキ子はそこまで思い付き、大社警察署に行きます。 ――西隣の出雲市は、豊かな穀倉地帯の風景であった。大抵の農家は風をよけるように北側の山を背にして、それぞれ黒や薄レンガ色の瓦ぶきの寄棟風邸宅を構えている。南側には広大な田畑がひろがっているのだった。 大社警察署は、出雲大社の参道の鳥居のすぐ手前にあった。白っぽいモルタル二階建ての目立たない建物である。―― 東京の鑑識に送ったパンクタイヤに刺さっていた釘からは、加賀山譲吉と操の指紋だけが出たのです。 春岡 えっ、ということはどういう? 江波 操は、平石警部に事情を聞かれます。 ――「東京の科学警察研究所にタイヤごと送ったところ、太くて新しい三寸釘から採取された指紋は……奥さん、あなたの指紋と同定できたのですよ」 なかば俯いたまま、操は身動ぎもしなかった。―― 操は、観念して告白するのです。 ――「はい、私が……私が沖さんを唆して、主人を襲わせたのです。ですからその前に、私が、新館工事のあと物置きの中にまとめてあった釘を一本持ち出して、現場でわざと車に踏ませてパンクさせたのです。主人にその車を取りにいってくれるように頼んで、同じ時沖さんに……」 平石警部の面上を、ゆっくりと何か複雑な感慨が横切った。 「あなたは、最後の一線で踏み留まって、せめてご主人だけは守ろうとしているね。しかし、今の話は、まだ少しちがうんじゃないですか」―― 春岡 どう違うのでしょう。 江波 女将の操の供述です。 ――お見通しのとおり、私共の計画は、沖さんを唆して主人を急襲させ、実は承知の上で待ち構えていた主人が正当防衛の形で反対に彼を殺すことでした。私は沖さんに、主人は一人でパンク修理しに行くと申しましたが、主人のほうでは、正当防衛の証人に仕立てるため、何も知らない青木定子さんを誘って同行してもらい、ベンツの中で待たせていたのです。―― 登場人物の心理の動き、出雲の風景描写など、読んでいて成る程なあ、と思うことばかりです。この作家は、小説の中の風景は作家の自由な選択が許されるし、同時に、登場人物の内面から割り出される必然性を著しく求められる。また、必然性が強いほど、すぐれた自然描写である、とも言っているのです。 春岡 よく分かります。どうもありがとうございました。ではまた来週に……。 |
「湖に佇つ人」終わり