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第5回 分水嶺   
                阿刀田 高/引用は 「異形の地図」 角川文庫より
 
 平成16年2月9日掲載

江波 二月も中旬にさしかかりましたが、節分も終わって少しずつ春になるような感じですね。季節の境目ということになるのでしょうか。ところで、境目ということになると分水嶺という言葉がありますね。
春岡 分水嶺……。というと、山の背を境にして、川とか雨水がそれぞれ反対方向に流れる場合の、その山の峰を分水嶺と言いますが……。
江波 阿刀田高という作家の作品に「分水嶺」というのがあります。
春岡 ミステリーー的な小説ですか?
江波 そうです。『異形の地図』という文庫本に載せられています。
春岡 異形というと、その言葉からだけでも、まさにミステリーアスですね。
江波 『異形の地図』には、十二の短編があります。その中の一つが「分水嶺」です。
春岡 ということになると、中国山脈あたりが関係しているということに。
江波 そうですね。岡山からの伯備線の列車と松江が舞台になっています。
春岡 岡山からの列車が分水嶺を越えるということですね。
江波 列車の名前は書いてないんですが、スーパーやくもと思いたいです。やくもは、昭和四十七年三月に山陽新幹線が出来た時に、それと接続する伯備線経由の特急となったんです。
春岡 ということは、トラベルミステリーということでしょうか。
江波 ある意味で、そうとも言えます。阿刀田の短編小説について、『異形の地図』の解説には次のように書いてあります。
――阿刀田高の個性的な短編小説の世界では、超現実的な夢と平凡な日常が奇妙に交錯している。血も凍る恐怖と甘く美しいロマンチシズムが、残酷さと優しさが、そして黒い笑いと切ない哀しみが、妖しい光と影を織りなしている。――
春岡 短編の名手とも言われているようです。名前は変わっていますが、これはペンネームですね。
江波 ところが違うのです。でも、いかにもペンネームらしいですね。字面、つまり文字の形も読み方も変わった感じだから、ペンネームと思われるのです。この名前は、仙台の方に多いらしいです。
 オール読物という雑誌の昭和六十一年十月号に本人の対談が載っていて、先祖は仙台で、阿刀寺という寺だったそうです。それが加藤田という名前の人と結婚して、両方の文字を混ぜて阿刀田という名字になった、と書いてあります。自宅は杉並区ですが、電話帳には、ご本人しか載っていません。全国には、この名前は十軒あるかないかだそうです。
春岡 何歳の人?
江波 昭和十年生まれです。


平成16年2月10日掲載

春岡 昭和十年生まれというと、七十近い作家ということになりますね。
江波 早稲田大学の仏文を出て、国立国会図書館に司書として勤め、その一方で執筆活動を続けたのです。昭和五十三年に『冷蔵庫より愛をこめて』でデビューして、翌年に短編集『ナポレオン狂』で直木賞ですから、やや遅咲きの作家でしょうか。
春岡 「分水嶺」は、何かの雑誌に書かれたものが、こうして文庫に入っているのでしょうか。
江波 昭和五十六年の「野性時代」という雑誌に載せられたのが最初です。そう言えば「野性時代」は、去年の十一月に復刊しました。最初の「野性時代」は、昭和四十九年から平成八年まで出てます。横溝正史などミステリー作家の起用でも話題を呼んだ雑誌だったんです。
春岡 『異形の地図』に載っている短編は、全て「野性時代」に発表されたものなんですか。
江波 そうです。さて、「分水嶺」ですが、原稿用紙にして約四十枚弱の短いものです。小説の冒頭は、列車の中でまどろんで、おもしろい夢を見た。という書き出しです。その後に、列車の説明が描かれています。
――列車と言うのは伯備線。岡山から出雲市へ向かう途中だった。伯備線に乗るのはこれが初めてではない。十数年も前に山陰のほうから山陽へ向けて走ったことがある。あのときは糸子と一緒だった。列車の進む方向と反対に川が流れ、いつのまにか同じ方向へ変わるのがこの路線の特徴だ。糸子はそれがおもしろいと言って窓の外ばかり眺めていた。
 今日は変わって向かいの席に同行の田島保子がすわっている。PR誌の仕事で出雲大社まで取材に行く途中である。保子は案内役をかねたモデルで、社の前で写真を撮る予定になっていた。
春岡 分水嶺の説明をさりげなく風景描写に重ねていますね。小説は、最初に場面設定というのか、読み手に情景を想像させるこういう描写が必要じゃないでしょうか。江波 そうですね。
――山陽地方では風の匂いも春めいて、わずかに日陰の山肌にのみ残雪を見る程度だったが、分水嶺を越えると窓の外は隈なく白の支配する領域となった。
 雲は重い。そして低い。
 伯耆大山は今日も姿を見せてはくれないだろう。――
春岡 白の支配する領域、というのは素敵な表現だと思います。
江波 一人称で書いてあるこの小説の語り手、つまり「私」は、以前に糸子という女性と一緒に旅行したんです。

平成16年2月11日掲載

春岡 女性と一緒に旅行をした「私」ですか。何か事件があったのですね。
江波 列車の中で、背中合わせになった男達が、出雲大社の話から結婚とは何か、というようなことについて話し合っているのが聞こえます。それを聞きながら、「私」は、十四年も前のことを思い出しているのです。糸子と仕事で松江や出雲に行った時に、ある事件があったのです。「私」は、その頃、あるテレビ局のプロデューサーの助手をしていて、糸子はアナウンサーでした。糸子に気があったのです。
――もう十四年もたってしまったのか。糸子との短い旅のくさぐさが心に帰って来る。とりけ松江のホテルであった些細な出来事が……。あの時も仕事の旅だった。同行者が数人いた。しかし私は一人勝手に糸子と二人だけで旅に出たような気分になって無邪気にはしゃいでいた。――
 つまり、二度目の出雲の旅ということで、昔のことを思い出したのです。今回も一緒に行く仲間の一人である女性と恋愛とか結婚について話をしています。この小説に出てくる私というのは、つまりは、語り手ですね。
 保子と話している場面です。
――「小説家だって、恋愛や結婚の話はしょっちゅうテーマにするだろ。世の中に幸福な結婚ばかりだったら商売あがったりだ。みんなが潜在的に男女の仲はうまくいかないものだって、そう考えているから小説の需要があるんじゃないのかなあ。そうでない小説もあるけど、少なめに見ても三分の一の小説はそうだな」
「本当ですか」――
 確かに、小説は源氏物語の時代から男と女を扱っていますね。
春岡 千年経っても、未だに恋愛物語の決着がついていないということですか。
江波 作家の小説に対する考え方が、ちらりと出ていて面白いと思います。
――列車は山嶺を抜け、米子平野に入っていた。山陰の風景はやはり山陽に比べて暗く、もの悲しく映る。
 なぜ瀬戸内海に面するほうが陽〃で、日本海に面するほうが陰≠ネのか。まさか分水嶺の陰になって山陰地方には日が当たらないというわけではあるまいし。さぞかし鳥取・島根地方に住む人にとっては不愉快な命名にちがいあるまい。――
春岡 こういうところにも書き手の思いというか、考えなどが出てますね。
――現実に列車が山陰線に入ると、そこはやはり山陽とは異なった沈鬱な風情が漂っている。太陽はやはり山の向こうの国には少ない光しか与えないのだろうか。線路沿いの畑にはまだ厚い雪が残っている。――


平成16年2月12日掲載

春岡 殆どの小説が山陰を描くと、こうなってしまいますが、でも、実際にはそうでもないと思いますが。
江波 確かにね。それはともかく、一行は松江のホテル「I」に泊まります。これは、多分、松江温泉にあるホテル一畑でしょうか。或いは、今はなくなりましたが、一文字屋ホテルでしょうか。ホテルアイであって、アイホテルではないので……。
春岡 なるほど、そうかもしれません。いずれにしても、舞台は松江ですから。
江波 どうでもいいようなことかもしれませんが……。それはともかく、十四年前になるのですが、そのホテルで糸子の一件があるわけです。
――ホテルIに着いたのは午後四時過ぎ。いったんそれぞれの部屋へ入って休息を取り、六時に一階ロビイに集合して夜の松江城の撮影に向かう手はずだった。
 糸子と私は同じ階の部屋だった。
 エレベーターで昇り、ドアの前で、
「六時少し前に声をかけるよ」
「ええ。でも先にロビイに行っているかもしれないわよ」
 私は風呂に入って一休みし、六時少し前に約束通り糸子の部屋のドアをノックした。返事はない。ノブを廻したが動かない。 ……先に行ったんだな…… ー
 私はエレベーターのほうへ動きかけたが、自分でも理由のよくわからない衝動にかられ、ヒョイと覗き穴に目を寄せてみた。
 中が見えるはずもない。見えないように作ってあるのだから。
 だが、部屋の明るさくらいはレンズを通して見える。
 たしかにその時もポッと白いものが……おそらく窓の白さが……窺えた。
 ところが次の瞬間、その白い視野を黒いものがスッと横切った。
 ……動くものが部屋の中にいる……
 私は咄嗟に泥棒!〃と言おうとしたが、かろうじて声を飲んだ。――
 泥棒ではないのかもしれない、と「私」は思ったのです。
春岡 つまり……。
江波 そうそう。男かもしれないと。一階のロビイへ降りると、案の定だったのです。糸子は先に降りていました。
――仕事が終わるとすぐに糸子は、
「疲れたから今日は失礼します」
 と、旅先の酒宴にも加わらずにホテルへ帰ってしまった。
 もとより泥棒に入られた〃という報告はなかった。
 私にも少しずつわかって来た。……あの黒い影は、男の洋服だった……

平成16年2月13日掲載

春岡 糸子は旅先の仕事の宿に、誰かを呼び寄せて秘かに会った。そして、その影が男だとすると、その男は、糸子が部屋を出た後直ぐに、ノックの音が聞こえたから、糸子が戻って来たのかと思ってドアに近づいてみたわけでしょう。
江波 そうなんです。でも、ちょっとミステリアスですね。
――男は、糸子が部屋を出たあと、すぐにノックの音が聞こえたので、ついうっかり……糸子が戻って来たのかと思って……ドアに近づいたのだろう。その時に服地の色が覗き穴のぼんやりした視界をよぎったのだろう。息をつめて、なんの返事もしなかったのは、彼がここにいるべき人ではなかったからだ。
 私の落胆は言うまでもあるまい。
 糸子にそれほどまで親しい人がいてはとても私が立ち入る隙はない。――
 というわけですね。そのことがあって、「私」の糸子に対する思いは急速に萎んでしまうのです。
春岡 なんか可哀想みたいですよ。
江波 夏目漱石の「虞美人草」に「丸顔に愁少し、颯と映る襟地の中から薄鶯の蘭の花が、幽なる香を肌に吐いて、着けたる人の胸の上にこぼれかかる。糸子はこんな女である。」というのがありますが、「私」は糸子をこんな風に見ていたのです。ですから、糸子は夏目漱石が描いた糸公ほどには清純無垢ではなく、恋の方法にも長けていた、と思うのです。面白いことに、「さも
あろう。もう明治の頃から長い歳月が経っているのだから。……」と言っています。春岡 余談ですが、漱石の描写というか表現はいいですね。
江波 なんて言っても文豪ですから。
春岡 また余談ですが、日本の文豪は誰と聞かれれば、どう答えたらいいのでしょう。江波 どうなんでしょうね。受け取る人によって違うでしょうかね。私なら、夏目漱石、森鴎外、永井荷風、芥川龍之介、谷崎潤一郎とか……。
春岡 荷風、潤一郎もですか?
江波 さあ……。これは好きずきとか。
 それはともかく、「私」は、こんなことも思うのです。
――いつの日か糸子の隠れた恋が姿を現すだろうと私はそう予測して見守っていたのだが、その気配はいっこうになかった。結婚の噂も聞こえなかった。 
 私はテレビ局を去り、糸子との連絡は途絶えた。次に糸子の消息を聞いたのは、今から数えて七、八年前、山陰の旅から数えてもやはり七、八年後のことだ。
「知ってるだろ。アシスタントをやっていた糸公、乳癌で死んだんだって」
「へえー、驚いた。結婚はしたの、彼女?」

平成16年2月14日掲載

春岡 糸子は、それでどうしたのです。結婚したのですか?
江波 いえ、結婚はしなかったのですね。いい子だったのに不思議と男の噂はなかったとも書かれています。このことが、最後のオチという形で関連しています。
――あの日ドアの向こうに見たのは何だったのか……男ではなかったのか。男であったとしても情人″と呼ぶような男ではなかったのだろうか。
 この答はもとより知るすべもない。
 ただ、私がなにも見なかったなら、その後の私の行動も少し変わっていたのではなかったか。
 ……あれも出雲の神様の悪戯だったのかな……
 私はホテルのベッドに寝転がってそう思いめぐらす。
 わずかなことが人間の運命を左右に振り分けるのは、べつにめずらしくもあるまい。分水嶺に降る雨は、いつもそんな運命にさらされている。瀬戸内へ落ちるか、出雲へ流れ込むか。――
春岡 こういう文章に、書き手の人生観というのか、人間に対する見方のようなものが現れるのですね。
江波 出雲の神様が運命を振り分けたのでしょうが、そのことは「私」にとってどうだったのでしょう。
 読み手にいろいろ想像させるというのが、小説の面白さですね。
春岡 こういうのが、たとえばブラックユーモアというようなものでしょうか。
江波 阿刀田作品の魅力なんでしょう。最初に言いましたが、この『異形の地図』は十二の短編があるのですが、全て「私」が登場します。つまり「私」が主人公で、しかも書かれているエピソードが、全部、旅先での出来事です。ですから、西村京太郎の列車などが舞台になるトラベルミステリとは、少し違う意味でなら、そうだということになりますか。
春岡 なるほど。作者が主人公で、つまり私が自分の生活とか経験をそのまま書いて、しかも自分の心の襞のようなものを読み手に見せるという私小説と言っていいでしょうか。
江波 この小説の「私」は、作者の阿刀田高ではなくて、語り手ですよね。だから、いわゆる私小説とは違うと思います。
 それにしても、小説を書くということは、どうしても自分が出るということですね。これもある意味で、恐いというか、作家の業のようなものというのか。
春岡 先生も頑張って書いてください。ではまた来週……。