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第4回 闇への疾走   
                笹沢 左保/引用は 「犯人ただいま逃亡中」 講談社刊より
 
 平成16年2月2日掲載

春岡 このところ横山秀夫という作家の『半落ち』という作品が、映画になったりして、書店にも新刊が沢山並んでいますけど。『半落ち』は、妻を殺した警察官の二日間の空白がキーワードのようですが。
江波 そうですね。ある意味で二日の空白は密室とも言えるかもしれません。
春岡 ミステリーでは、よく密室での事件などが題材になりますね。
江波 密室という文字のついたタイトルは、かなりあります。梓林太郎の『松江・出雲密室殺人事件』とか、密室という文字はないけれども、松江の県立高校が舞台になっている法月綸太郎の『密閉教室』。
春岡 あ、それ面白そう。
江波 またいずれ……ということで、笹沢左保の『闇への失踪』を読みましょう。
春岡 密室に関係があるのですか?
江波 物理的な密室でなく、心の密室かな。
春岡 笹沢左保というのは、もちろんペンネームですね。女性の作家と間違えそう。
江波 左保という名前が……。本名は笹沢勝ですが、佐保子というのが奥さんの名前で、佐を左にして、子を取った。
春岡 亡くなった作家ですね。確か、平成十四年の十月に七十一歳で、癌だったとか。江波 そうです。笹沢左保というと、何を連想しますか?
春岡 作品だと、たとえば、『霧に溶ける』、『人喰い』、『結婚って何さ』とか、『空白の起点』、『真昼に別れるのはいや』など。江波 沢山知ってますね。ほかには?
春岡 ほかに?
江波 凄く有名な題名、というか、登場人物がいるじゃないですか。
春岡 えぇ……っと。
江波 木枯らし紋次郎。
春岡 そうでした。笹沢左保作品でした。江波 昭和の四十年代半ばに大ヒットした作品ですね。小説もですが、中村敦夫主演でのテレビドラマがありました。
春岡 あっしには、かかわりのねぇことでござんす……が流行語でした。
江波 紋次郎シリーズで、一躍売れっ子作家になって、時代小説作家と推理小説作家という二つの肩書が付いたんです。いずれも、一種独特な不気味さとか孤独感を漂わせているのが笹沢作品かと思います。
 紋次郎の生まれ故郷を再現した三日月村というのがあるんです。いわゆる上州新田郡というのです。紋次郎の生家とか茶屋や水車小屋、更には居酒屋なんかがあって。
春岡 小説でしょう? それが本当にあるんですか? 面白いですね。
江波 群馬県新田郡藪塚本町に、木枯紋次郎記念館があります。
春岡 三日月村という集落が本当にあるのですか?
江波 いえ、正式地名でなく、小説のです。

平成16年2月3日掲載

春岡 文学記念館というと、普通は作家の名前が付けられる、たとえば札幌市にある渡辺淳一文学館というようなものかと思いますが、木枯紋次郎記念館というのも珍しいですね。笹沢左保の全著作とか、書斎が再現されているということでしょうから。
江波 そうなんです。三日月村という実在しない村の名がユニークです。この記念館の所在地が、藪塚本町三日月村となっているのですからねえ。
春岡 何か楽しくなってしまいます。ところで、『闇への疾走』ですが。
江波 このモデルは、宍道湖畔で行われる玉造毎日マラソンです。
――毎陽新聞主催の毎陽国際マラソンが山陰地方で行われるのは初めてだったが、それだけに地元での人気は大変なものであった。島根県の松江市と出雲市の間にある商店は、開店休業も同様だった。――
春岡 毎陽新聞という名前からしても、ある中央紙を思わせますね。
――選手たちが勢揃いしたのは、松江のやや西にあって玉造温泉で有名な玉湯町であった。この玉湯町の出発点をスタートして、宍道湖を右に見ながら国道九号線を西へ八・五キロ行くと宍道町にぶつかる。――
 えっ、モデルになっている玉造毎日マラソンのコースとは違いますけど。
江波 そうなんです。毎日マラソンは玉造温泉から出て、松江に向かい、湖北の大垣町で折り返します。
――宍道町からは九号線をそれて、国道五十四号線にはいり南へ十二キロ下る。そこの木次町に折返し点がある。折返し点から同じ道を、玉湯町まで戻って来るのであった。――
春岡 えっ? ということは、島根県の松江市と出雲市の間にある商店は、開店休業も同様、というのはどうなるんでしょう。
江波 確かに、出雲市とは直接関係がないコースですから、まあ、作者の思い違いということでしょう。
春岡 小説をそういう視点から見るのも面白いじゃないかと……。
江波 なるほど、そうですね。ところで、主人公は波多野という名です。極東レーヨンという会社の社員で、重役の娘と結婚しているのですが、陸上部のランナーです。波多野は、ボストンで優勝、朝日マラソンで優勝、そして毎陽マラソンで今度優勝すると三連覇という大変な成績になるという筋立てになっています。
 この小説は毎陽国際マラソンで波多野が走りながら、いろいろなことを回想するという形になっています。波多野が見る風景は、宍道湖なのですが、それが非常にうまく書かれていると思うのです。
春岡 やはり宍道湖の風景が、背景として描かれるのですね。

平成16年2月4日掲載

江波 宍道湖は、日本有数の美しい湖ですから、出雲を訪れる作家はどうしても書きたいのでしょう。
――すぐ、右手に宍道湖が見え始めた。その巨大な湖面が秋の日射しを受けて、キラキラと輝く青い羊皮紙のようであった。湖までが自分の勝利を祝福しているように感じられて、波多野は思わず口許を綻ばせていた。――
春岡 青い羊皮紙という表現は、初めて見
たような気がします。いずれにしても、景色のいい所に行って見ようと旅行をして帰って来ると、やはり宍道湖とか出雲はいい、何で遠くにまで行かなくちゃならないだろう、なんて思ってしまいます。
江波 なるほど、出雲に住む人達は、誰でもそう思うんじゃないでしょうか。こういう描写もあります。
――玉湯町から宍道湖までの国道九号線は、宍道湖に沿って走っている。金色の湖として知られる夕暮れの宍道湖に、観光客が感嘆の声を洩らして眺め入るのもこのあたりであった。――
春岡 金色の湖……。そうかもしれませんが、このコースだと、こういう描写の場所は少し違うというか、ずれてますね。
江波 そうです。木次町が折り返し点となっていますから。その木次の折り返しで、波多野は独走態勢に入ります。
――イケル、と思った。とたんに、ふと女の言葉が彼の脳裡をよぎった。
「優勝できるでしょうね。でも、優勝したからって、どうなるのかしら……」
 女は、そう言ったのである。先週の土曜日であった。女の名前は、衿香だった。アパートの彼女の部屋のドアに『金杉』と札が貼ってあったから金杉衿香というのが正確な名前に違いなかった。――
 衿香は年齢が二十四位で、東京の立川市にある大きな料亭の跡取り息子の二号さんということになっているのです。波多野は、
大会の三ヶ月前から練習を始めて、毎晩、十キロずつ、土曜には三十キロを三時間かけて走ります。土曜の三十キロは、自分の家がある調布市から立川までが練習コースなのですが、衿香のアパートは、立川市にあります。
春岡 というと、波多野と衿香は、何かの関わりがあって……。
江波 そうです。練習の時に、波多野は衿香と知り合い、土曜、それも雨の降る日の練習の時には必ず衿香がアパートに誘うのです。
春岡 何かの意味がありそうですね。
江波 そうなんです。波多野について、更に伏線として、神経質というか気が弱いということになっています。
 ともかく、波多野は走りながら、女のことを思います。衿香なんですが。

平成16年2月5日掲載

春岡 マラソンランナーは、どっちかというと強靱な精神でなくてはいけないんじゃないかと思うのですが。
江波 だから、そこが小説の構成なんで。
――甲州街道を右にそれて、立川市の錦町六丁目へはいった。錦町マンションの前に、傘をさした衿香が立っていた。彼女は波多野の姿を見ると、ホッとしたように表情を柔らげた。波多野は教会の前で折り返すと、再び錦町マンションの方向へ走った。もうズブ濡れであった。トレーニングを中止して、タクシーで家へ帰るほかはなかった。
「どうぞ、お寄り下さい。雨がやむのを、お待ちになったら?」
 と、衿香が、半ば歩きかけていた波多野に声をかけて来た。
「いや、タクシーでも拾って帰りますから……」
 さしかけてくれた傘の下で、波多野は足踏みを続けながら笑った。日焼けした彼の顔と白い歯を、衿香は眩しそうに見た。
「でも、こんなに濡れて、身体に毒だわ。さあ、どうぞ……」
 衿香は、波多野の手をとって錦町マンションの入口のほうへ歩き出した。――
春岡 雨、土曜日の三十キロの練習、そしてそれに掛かる時間というのがキーワードではないかと思えますが。
江波 相変わらず鋭いですね。つまり、波多野は衿香という女と、そういう関係になるのです。練習のたびに衿香のマンションに寄るようになります。衿香の夫は、強盗傷害罪で刑務所に入っていて、衿香は淋しかったという設定です。
――「波多野さん、しつかり!」
 黄色い声援が、飛んで来た。若い女だとは、わかっている。しかし、さすがにそっちのほうを見るだけの余裕は、失っていた。汗もかなり流れていたし、呼吸が苦しかった。不調なのではない。レースのうちで、ここしばらくがいちばん苦しいときなのだ。
 足は、まだ重くない。道がのぼりになったが、波多野のスピードはまったく落ちなかった。道は、山陰本線をまたいでいる陸橋であった。この陸橋を渡り切ると、宍道町の街中である。旧道を突っ切れば間もなく、宍道湖を眼前にした国道九号線へ出られるのであった。――
 前に言いましたが、波多野は走りながら、女のことを思います。レースとそういう回想が交互に描写されます。
――「もう走らないの」
 アパートの前で待っていた衿香が、不思議そうに声をかけて来た。疑うような目つきだった。
「今度は最後だし、あんたの顔を見に来ただけなんだ。帰りは、タクシーだよ」
 波多野は、呼吸を整えながら笑った。―

平成16年2月6日掲載

春岡 どうしても衿香は、波多野をアパートに引き留めたいのですね。
江波 そうなんです。それがこの小説の大事な点で、最後にそのことが解き明かされるというのです。
――「だったら、寄ってらっしゃい」
 逃がすまいとするように、衿香は素早く波多野の手をとった。――
 最後の言葉、逃がすまいとするように、というのが、キーワードなのです。波多野は走りながら、衿香とのことをいろいろ考えます。すると不思議なことに気がつくのです。ある一定の時間、波多野を家へ帰さないようにしているのではないかという推測です。衿香は、誰かに頼まれたのではないか。家に帰さないようにということになると、それは家族でしかない、という考えに波多野は行きつきます。最初に言いましたが、波多野の妻は重役の娘で、京子というのです。
春岡 ということは、波多野は毎週土曜に三十キロを走る練習をしていますね。雨が降ると、途中で練習を止めてタクシーで帰るのですが、そういう時、つまり、雨が降る日に限って、衿香が自分の部屋に波多野を引き入れる……。
江波 そうなんです。波多野を部屋に引き留めておくために男と女の関係になったんです。そういうことを考えている間に、トップを走っていた波多野は、二位の選手に追いつかれます。  
春岡 何かのために、ある一定の時間が衿香には必要だったということでしたが。
江波 衿香の夫は窃盗目的で、ある屋敷に侵入します。ところが、その家のお嬢さんと顔を合わせてしまい、ナイフでその人の左腕に傷を付け、逃げ出して衿香の所へ帰って来たのです。顔を見られているし、捕まるのは時間の問題だと思った衿香は、そのお嬢さんに、何もしていなかったことにしてくれと頼みます。
春岡 すんなりといくものでしょうか。まあ、衿香が必死で頼んだんですね。
江波 そういうことがあって、というのか、波多野は走りながら、そのことを思い出しているのです。
――宍道湖が茫漠と広がっていた。今度は、湖を左に見て走るのだった。さっき見たときより、湖面の輝きが鋭くなったように感じられた。遠くに見える丘陵地帯の緑が、鮮やかであった。このあたりに、山陰地方という言葉から受ける暗さは、微塵もなかった。――
 遠くに見える緑が鮮やかとか、山陰地方という言葉から受ける暗さはなかったとあります。だが、いったん来てみるとそうではないと、作者は言いたいんですね。

平成16年2月7日掲載

春岡 この「闇への疾走」が入っているのは、講談社のミステリー傑作選という文庫本のようですから、小説の最後が問題といいうか面白くなくてはいけませんね。
江波 そうそう。最後になって、読者に「あっ」と思わせる、「ああ、そうだったのか」と思わせることが大事です。見当が付くと思いますが、実は、波多野の妻の京子には愛人がいるのです。波多野がマラソンの練習で外に出ている間に、結婚前からの恋人と時間を過ごしていた。そのために、衿香が波多野を何時間も引き留めておく必要があった、という訳です。そのことを波多野の妻の京子が、衿香に頼んでいたのです。
春岡 やはり、そうなんですか。
江波 次のように書かれています。
――それは、去年の夏の出来事だった。去年の夏には、波多野と京子の婚約がまとまりかけていた。毛利という愛人がいて、京子が苦悩するのは当然であった。しかも、その頃重役の家に泥棒がはいったという噂を、会社で耳にした記憶があるのだ。また、京子の左腕に二センチほどの小さな傷跡があるのを、波多野は見て知っているのである。
 お嬢さんというのは、京子のことに違いなかった。京子のお陰で、衿香は二年後に愛する男と新しい生活を始めることができる。その恩返しに、今度は衿香が京子の叶わぬ恋のためにせめてもの手助けをしてやったというのが真相なのだ。
「優勝したって、どうなるのかしら……」
 衿香のこの言葉には、妻の不貞も知らずにひたすら優勝への執念を燃やしているひとりの男への同情と空しさと憐憫が含まれている。――
 波多野は走りながら、そのことに気が付くと同時に、マラソンなどどうでもよくなり、スピードは落ち、抜かれていくのです。ゴールが見えてきたとき、波多野は、まさに闇に向かって走って行ったのです。
春岡 なんという……。
江波 ミステリーですからね。それに小説ですよ。
――波多野は、絶望感を味わっていた。もはや優勝は、不可能であった。これ以上無理すると、死ぬかもしれなかった。しかし、死んでもいいではないか、と波多野は思った。そもそも、マラソンの歴史は死から始まっているのだ。――
春岡 題名もそこから来ているのですね。波多野が、まさに闇に向かって走って行くという……。出雲でこういう物語が展開していたのですねえ。
江波 何度も言いますが小説ですよ。春岡さん。でもリアリティがあります。なぜなら、我々がよく知っている場所が出てくるからですよ。
春岡 そうですね。ではまた来週……。