紅い髪の女
ラフカディオ・ハーンが、横浜から松江に来たのは、明治二十三年八月三十日の午後であったという。 通弁の真鍋晃(まなべあきら)と一緒に、松江大橋北詰にある冨田旅館に着いた。 その日は土曜日で夕刻に近い頃だったが、夏の陽射しは未だ強かった。 ハーンは九月二日から、島根県尋常中学校の英語教師として勤め、翌年の十一月、熊本の第五高等学校へ移るまでの一年三か月を松江で過ごした。 松江は、後に小泉八雲と名を変えて帰化したラフカディオ・ハーン≠フ街として、よく知られている。 松江の図書館には、ハーンの著作や研究書、関係の雑誌類が揃っていて、自筆の原稿や写真なども所蔵されている。もちろん、ハーンが住んだ町の図書館だから当然といえばそうであった。 図書館に隣接して音楽堂が建てられている。収容人数は八百ばかりで、ドイツのベッケラート社製のパイプオルガンもあり、県内でも有数の施設だ。 咲夜子(さよこ)は音楽堂の前で立ち止まり、白く細い首を傾けて腕時計を見た。 夕方から開かれるギター・リサイタルを聴きに来たのだが、開始時刻までにはまだ二時間ばかりもあった。 うなじに両手をやり、背中に流れる黒く長い髪を跳ね上げた。通りがかりの若い男が、おっ≠ニいう小さな声を上げ、立ち止まった。咲夜子は見られることに慣れている。学生時代に、絵のモデルをしたことがあるからだ。着衣だけだったが――。 咲夜子は、岡山県の津山大学を三月に卒業し、春から松江に本社がある島根日報社の学芸記者になった。 名刺に島根日報記者≠ニ刷り込めば、その時から新聞記者だった。もちろん、社内で新入社員の研修はあるのだが、特別の資格などもらったわけでもない。 咲夜子は名刺が刷り上がって手元に届いたとき、そう思って苦笑した。ついこの間まで学生だったのに、と思ったのだ。 「まだ時間あるな」 エントランスを左に折れた。始まるまでの時間を図書館で過ごすつもりだ。 何を読もうというあてはない。 夏が背を向け、雲が川瀬のように流れ始めた彼岸過ぎの金曜日で、連休前の図書館は閑散としていた。 人影はまばらで、ガラス窓を通して射し込む夕暮れの西日が、敷き詰められた絨毯の上に柔らかな影を落としていた。 慶長十二年、堀尾吉晴が松江城築城に取りかかってから、松江という町の歴史が始まった。平成十九年から五年間にわたって開府四百年祭が開かれている。 幾つかある記念事業の一つにラフカディオハーンエッセイコンテスト”がある。そのことから島根日報もハーンの特集を組むことになっていた。学芸部のデスクから、ハーンについて調べておけと言われている。 貸し出しカウンターを横目に見て、郷土資料が並ぶ棚に向かった。 少し奥まった感じになっているその場所は、いつものことだが誰も居なかった。図書館全体からみると、死角のようなところだから、ゆっくりと本を見ることができる。 壁に沿って、ラフカディオ・ハーンの資料が置かれた三段の低い棚がある。いちばん下には、二十冊近い小泉八雲全集が、背表紙に金色の文字を光らせていた。 咲夜子はジーンズを太腿に食い込ませながらしゃがんだ。 棚の左端に第七巻がある。日本の各地に伝わる恐ろしい話や不思議な話を再話した八雲の怪談集だった。 その本を引き出すと、奥の方でガサと音がした。のぞき込んで見ると、並んだ本の背中に僅かな隙間があり、押し込まれたようになった小さな冊子があった。五冊ばかりの本をどかせて取り出した。 二十ページばかりで四六版の薄い本、というより素人の手作りの粗末な冊子だ。 表紙は紫色で、長い髪をした若い着物姿の女がモノクロで描かれ、題名が隷書体で『紅い髪の女』と書かれている。文字の色は、題名に合わせたのか濃い赤だった。何となく陰惨な感じがする。 「誰かが忘れたのだわ」 皺のよった埃だらけの冊子は、図書館のラベルも押印もない。奥付には、著者、深田波瑠(ふかだはる)、発行昭和十九年と書かれている。著者の住所は書かれていないが、電話番号があった。〇四〇で始まる十四桁の番号だった。 奥付に書かれた発行所を見て咲夜子は、えっ、これ何――と思った。島根日報社とあったからだ。 「私が勤めている新聞社だわ。でも……」 昭和十九年に島根日報社は、設立されていない。いくら駆け出しの新米記者でも、自分が勤めている会社がいつ頃出来たかくらいは分かる。どうしてこんなものがあるのか、できていない新聞社が冊子を作るはずはない。不思議だった。 図書館のものではないらしいから、持って帰ってもよいのだろう。持ち出すというより、暫く借りた形にして用が済んだら返せばよい。もちろん、図書館の棚にあるから、窃盗になるのか、いや、そんなに大袈裟なことでもない。罪にはならないだろうと咲夜子は思った。 それにしても、こんな冊子に小説らしきものを書いた深田波瑠は、どういう人なのか。 咲夜子は、冊子を手にして図書館を出た。前庭の左側には、梅謙次郎の顕彰碑がある。梅謙次郎は、万延元年、松江に生まれた法学者で日本の民法典の起草者の一人だ。碑が建つのは、市民の杜”と呼ばれている場所である。咲夜子はベンチに座り、冊子を広げた。 薄汚れた表紙をめくると、前書きらしい文章がある。 ――私はラフカディオ・ハーンに惹かれ、讃岐国は四国の紫野村(しのむら)から出雲にやって来た。そして、加賀の潜戸で、黄泉の国から来たという女に出会った。 紅い髪をした女だった。女は、百年ほど前、加賀の潜戸を訪ねたハーンに死の国から来た自分のことを語ったのだが、著作の中に入れてはくれなかったのだ、と、恨めしげに言ったのである。 私は、ハーンの著作や幾つかのハーン研究資料を調べてみた。しかし、ハーンが加賀の潜戸で、紅い髪の女に出会ったとは、どこにも書かれていなかった。 とすると、私が女に出会ったのは夢であったのかということになる。だが、確かに私は女と対峙したのだ。女の顔は、いまでも目の奥に焼き付いている。能面にも似ていたが、恐ろしいほどに美しい顔だった。 ハーンが取り上げなかったのなら、私が書いておこうと思った。それがこの紅い髪の女≠フ話である。―― 前書きに続いて書かれている話は、次のようなものだった。 十月のある晴れた朝、山間の村に祝い歌が響いていた。嫁入りの行列が、里の道をゆっくりと進んでいる。山の麓に立って見詰めている娘の目にも、美しく見えた。 「私には、あのような日が来ることはない。この髪さえ黒かったら……私も」 娘は古びた稲藁のような紅い髪を引き抜いてしまいたい衝動を覚えた。 髪に比べて、娘の肌は絹蒲団のように白く滑らかで、何ともいいようにない甘い匂いが体を包んでいるのだった。 季節ごとに衣を変える美しい森は、山の幸をふんだんに抱き、中腹には沢が流れ、その水は近くの神社にある池に注ぎ込んでいた。 池は鏡のように清らかで、娘も知らない名の魚が群れていた。鳥は澄んだ声で鳴いたが、娘の気持ちを和らげることはなかった。 人目を忍ぶ娘は深い森の中に家を建て、山深い森の中で独り淋しく暮らしていた。 長い間、森から一度も出なかった娘は、自分がすでに老婆になっているのではないかと思った。 「こんな紅い髪では、誰も私を嫁にはしてくれないだろう。誰とも顔を合わせず、独りで暮らしていくより、死んだ方が……」 娘は豊かな水をたたえる池に身を投げようと、かがみ込んだ。 のぞき込むと、不意に水は墨を流したように黒く濁り怪しげな光を放って、地獄の入り口のように見えた。 足がすくんだ。目を閉じて体を乗り出すが、どうしても一歩が踏み出せなかった。 「何の楽しみもなく、このまま齢を取るよりも……」 心を決めた娘は、草履を脱ぎ身を乗り出した。その時だった。 「止めなさい!」 男の太い腕に肩を掴まれ、後ろから抱き止められていた。 いつの間に来ていたのか、旅姿の若い男だった。 何年ぶりかで聞いた男の声に、娘はまるで紙で作った姉様人形のように、地面に崩れ落ちそうになった。娘の躰からは、甘い匂いが漂った。 若い男は、囁くように言った。 「死ぬ気なのだろう。馬鹿なことをしちゃいけない」 娘の躰から匂い立つ香りに酔い、白い肌に眩暈を感じたのか、男は思わず唇を寄せながら娘を地面に横たえていた。 娘は男の手が着ているものを剥ぎ取るような気配を感じたが、抵抗しなかった。見ず知らずの男の手が躰をまさぐるのを受け止めながら、嬉しさに震えていたからだ。 「ああ、こんな私でも、望んでくれる男がいた……」 初めての鋭い痛みと血に、娘はそれが紅い髪を黒くしてくれる訪れだと思った。なぜかそう信じた。 その夜から、二人は一緒に暮らし始めた。 娘は、男を片時も離さなかった。 なぜなら男に抱かれるたびに、その時間が長ければ長いほど、ほんの少しずつではあるものの髪は黒くなるように思えたからだ。 娘は片時も、男をその手から離さなかった。男が猟に行くときも、沢で魚を釣るときも。だが、あまりの激しさに、男はしだいに鬱陶しさを覚えるようになったのだ。 そのうち、男は独りで森の中で過ごすようになった。 娘は狂ったようになって探し回った。男に捨てられたら、と思うといても立ってもいられなかったのだ。体中を鋭い茨や小枝に傷つけられ、血を流しながら探し回った。 男を見つけると胸ぐらを掴み、血にまみれた獣のような姿で抱きついた。 「俺はもう山に住むわけにはいかない。古里へ帰らねばならない」 男は疲れた目を向けて女に言うのだが、娘はどこまでもついて行くと叫んだ。 男はその激しさに驚き、娘の腕を振り払うと、大声を上げた。 「いくらお前が好きでも、その紅い髪では……。もう少し黒い髪であったなら、一緒に俺の古里へ連れて行くのだが」 娘は両耳に手を当てて頭を振ると、頂上目がけて走り出した。 巨大な木の根につまづいて倒れ、泥にまみれながら娘は自分の生まれを呪った。 泣きはらした目は、何も見えなくなった。気がつくと、霞んだ目の先にひとりの女が立っていた。 巡礼のような装いをした女は言った。 「お前は紅い髪を恨んでいるようだが、黒くするいい方法があるのだよ」 「教えてください。どうすればいいのです」 娘は女の足元に、転がるように跪いた。 「簡単なことだ。池の水で髪を洗えばいいのだわさ」 言った途端に女の姿は消え、娘は自分の家の近くにある池の畔に戻っていた。 娘はその日から、一日に何度も洗った。洗うと髪が濡れている間は黒くなり、乾くとまた元の紅い色になるのだった。 冬になった。それでも娘は、凍るような池の水で洗った。水の冷たさに両手はしだいにひび割れがし、美しかった肌は茶色になっていった。 やっと春が来た。 来る日も来る日も、娘は洗い続けた。いや、洗っているのは娘ではなく老婆だった。山姥だった。 「嘘とも知らず、洗い続けた馬鹿な娘だ。私は、若い男と一緒に暮らしているのさ」 娘の耳に届いたのは、あの女の声だった。谷底から噴き上がる風のように、娘を襲ったのは血の滾るような怒りだった。 「騙したな――」 娘は研ぎ澄ました鎌を持ち、女の嗤い声を頼りに山を駆け降りた。 「殺してやる」 紅い髪が森の中を飛んだ。沢を跳んだ。鳥が驚き、ざわざわと木々を揺らした。 里の集落が見えた。どこからか男と女が話している楽しげな声が聞こえた。 娘は、初めて男に出会ったことを思い出した。あの時、抱き止めてくれた腕の、躰が折れるかと思うような強い力、温かかった肌、吸われた唇の感触が浮かんだ。 「私を愛してくれた、ただひとりの人……」 娘の目から流れ出る涙が頬を伝い、足元に咲く花を濡らした。 山に引き返した娘は、鏡のような池の水面を見ながら紅い髪を左手で掴んだ。右手に持った鎌でざっくりと切り落とした。 「この紅い髪が、私の一生を無茶苦茶にしたのだ」 娘は髪を池に投げ込んだ。髪は水に沈んだ。と見る間に、その髪は無数の紅い蛇になって水面から跳ね上がり、娘の体に巻き付いた。 限りなく池から湧き上がる真紅の蛇は一筋の縄になり、娘の躰を縛ると池の中に引きずり込んだ。 「誰もが幸せに暮らしているのに、なぜ私だけが不幸な一生を終えなければいけないの! 一体、私が何をしたというの。何の罪を犯したというの」 娘は冷たい氷のような水底に沈みながら、叫んだ。 水底から、年寄りかとも思える男の重い声が聞こえた。 「人は生まれながらにして、生きる定めを持っているのだ。お前はそれを呪った。呪いと恨みが、お前の心と体を鬼にしたのだ。だから、男は去ったのだ。もっともっと男の思い通りに尽くせばよかったのだ」 繰り返し聞こえる声に包まれた娘は、水底深く沈んでいった。 鏡のように輝く池へ続く道を知っている村人は、一人もいなかった。 咲夜子は、最後のページをめくった。そこには深田波瑠の名で跋文があった。 ――ハーンは、なぜこの話を怪談集に取り入れなかっただろうか。 私の想像でしかないが、髪が紅いことからくる娘の悲哀や苛立ちを自分の目の不具合に重ねたのではないか。 娘の苦しさや悲しみが自分の心に映し出され、それが理解できたから、著作の中に残したくなかったのだと私は思うが、どうだろうか。―― そこまで読んだ咲夜子は、小泉八雲旧居の前にあるハーンの胸像を思い出した。 ハーンは遠いギリシャのレフカダ島から、山陰の小さな都市、松江まではるばるとやって来た。 咲夜子は胸像を初めて見たとき、いったい誰なのだろうと思ったのだ。 台座に書かれたハーンの名を見て、やっと分かった。 それまで、やや横向きのハーンの写真しか見たことがなかったからである。 咲夜子は少し顎を上げ、遠いところを見ているようなハーンは、何を考えているのだろうと思った。 ハーンの怪談は、化け物や幽霊が醸し出す恐怖の世界を通して、人間の生き方を描いている。『飴を買う女』の話などは典型的な例なのである。 そうであるならば、どうして『紅い髪の女』を取り上げなかったのか。考えているうちに、深田波瑠が言っていることも分かるような気がしてきた。 だが、それならば、収録しないことの方が不自然ではないか。 咲夜子は冊子を閉じた。 「返しておこう。忘れ物であれ何であっても、黙って持ち出すのはよくない」 奥付に書かれていた深田波瑠の電話番号を記者用の新聞手帳に書き留め、図書館に引き返した。 開架の部屋には、数人の来館者が居るだけだった。 咲夜子はハーン全集を数冊取り除き、元あったように棚の奥へ冊子を押し込んだ。 島根日報社は松江市の北部、北山山脈の中腹にある。もともと内中原町にあったのだが、社屋を新築し新年度になって移転した。 南向きで高い位置に建っているせいもあり、かなり眺めがいい。晴れた日には、東に伯耆大山、西に目をやると宍道湖のきらめきが見える。 周囲には、情報技術センター、大学の研究機関などが並び、情報分野の企業も集まっていて、いわば島根県の情報産業としては最大拠点である。 新聞社の朝は遅い。十時に出勤すると、学芸部長が声を掛けてきた。 「よお、咲夜ちゃん。ハーン、おっと違った。小泉八雲の取材は進んでるかい?」 部長は、いつも咲夜ちゃん≠ニ呼ぶ。親しみを込めたつもりかもしれないが、ちゃん”は止めて欲しい。 「ええ、面白い話が書けそうです」 図書館で見た島根日報社が発行した冊子を発見したことは、暫く黙っていようと思った。いわくがありそうだった。それを自分で確かめたかったのだ。 「いい材料を集めてくれよな」 咲夜子は手帳を取り出し、深田波瑠の電話番号を暫く眺めていた。〇四〇から始まる十四桁だ。 十四桁という電話番号の桁数も妙だ。携帯電話でも十一桁である。しかも、〇四〇が付く番号を使っていたのは、かつての沿岸船舶電話ではなかったか。 深田波瑠は、船に乗っていたのだろうか、と咲夜子は思った。 プッシュした。呼び出し音が鳴っている。少し遠い感じがする。 ルルル――という音が切れ、女の声がした。波瑠という名の男かと思っていたが、女だったのだ。 「もしもし……」 なぜか深い闇の底からのように思えた。 「島根日報学芸部です」 どういう用件かと聞かれたのに答えて、『紅い髪の女』という冊子のことだと言うと、女は(くくくっ)と笑った。 「私、深田よ。やっとあなたに渡ったのね」 「やっと? 私に?」 「そうよ。ほかの人ではいけないの」 あの冊子は、私のために作られた? まさか、そんなことがあるはずがない。しかも、女はやっと、あなたに……”と言った。 「どういうことなんでしょうか」 「電話では駄目よ。答えられないわ」 咲夜子はスクープになるかもしれない、と思った。ハーンに関する未知の研究者かもしれないのだ。 「深田さん、会っていただけます?」 女が指定したのは、翌日の午後五時半、松江市島根町の加賀だった。港から潜戸が見える所で待っていて欲しい、と女は言う。 加賀の売り物は、神話を伝える洞窟の新潜戸と賽の河原がある旧潜戸だ。遊覧船が出て、一時間近くの海の旅が楽しめる。 観光遊覧船の発着場には、島根町出身の日本画家である松本晁光の作品を展示する美術館ギャラリー晁光”もあって、いわば隠れた観光地でもある。 咲夜子が着いたのは、午後五時過ぎだった。夕方のせいか、港には人の姿がなかった。 咲夜子は駐車場に車を停め、腕時計の時刻を確かめてから、波打ち際まで出てみた。まだ少し時間がある。 陽が沈み始めた海は波もなく、灰色の絨毯を敷き詰めたかとも思えるほどだった。空は水平線に向かって、足早に薄墨色を増し始めている。 海を見ながら佇んでいると、足元でざわという微かな波音がした。 両手で包み込めるほどの紅いボールのようなものが、水の中に漂っている。 引く波が持ち去ろうとする前に、咲夜子はそれを掴んだ。 細く紅い糸で編んだ手鞠のように思えた。 木綿糸や毛糸ではないらしい。何で作られているのか、それは海水をはじき、艶やかだった。水を吸っているのだろうが、なぜか重かった。 爪ではじくと、鋭い音がした。芯になっている丸い球体は、ガラス玉のようだった。 「それは私のものです」 不意に、咲夜子の背中で声がした。 振り返ると、西側の突堤の先端に女が立っていた。背中を向けて海を見詰めている。 薄暗くなり始めた空気の中で透かすようにして見ると、青い色の着物を着た長い髪の女である。後ろ向きだが、声をかけたのはその女だろうと咲夜子は思った。 だが、確か、そこにはさっきまで誰もいなかったはずである。 突堤は十五メートルばかり海に突き出ていて、そこへ行くまでには咲夜子の後を通らねばならない。足音に気が付くはずだが、何も聞こえなかった。 「持って帰ってはいけません」 気が付くと、女は咲夜子の手が届くような所まで来ていた。どうやって側まで来たのだろう。歩いて来るのを見てはいない。 どういうわけか、あたりは一瞬のうちに暗闇に包まれていた。女が背中を見せたままで、また言った。 「持って行く……つもりなのですか?」 女が言っているのは、咲夜子の手にある手鞠のようなもののことだろう。 「これですか? どうして? さっき拾ったんです。あなたのものだという証拠でもあるのですか?」 咲夜子は、そこまで言って気が付いた。 「深田……波瑠さんですか?」 漆黒の闇は更に深まってはいたが、約束の時間に近い。 「そうよ。あなたは咲夜子さんよね」 振り返った女の顔は、青白く、細面で鼻筋が通っている。 女の着物が、少し濡れているように見えた。 まるでたったいま、水の中から立ち上がったかとも思えた。身震いがした。 「そうです。咲夜子です。お電話で……」 「ええ、分かっています。それで――何が知りたいのですか?」 「図書館で見た『紅い髪の女』というのは、私のためにとか……」 「そう、あなたがハーンの、いえ、ヘルン――私は、いつもそう呼んでいたものだから、ヘルンと言っているのですが、彼のことを記事にすると知って」 咲夜子は、この女、つまり波瑠は何を言っているのだろうと思った。(いつもそう呼んでいた)、(記事にすると知っていた)と言うのである。記事にするなどということは、島根日報社の中だけのことである。外部の人間が知るはずはない。それに、ハーンのことを(いつもヘルンと呼んでいた)とは何なのか。 「あなたの言っていることは……」 「そうでしょう。分かるはずがないわね」 黒洞々たる夜の海辺だ。 波瑠が語り始めた。 「確か九月だった。夏が過ぎ秋が駆け足でやって来ようとしていたから。松江から島根半島の山を越えて、ヘルンは御津へ出たのよ。そこから船を雇って、岬を回り、加賀にやって来たわ」 「潜戸に?」 「そう。神が生まれ、子どもの霊がある洞窟にね。潜戸に行く者は、加賀の海岸から船を使うのよ。ところがヘルンが乗った船は、潜戸の岬を回って外海から入って来たのだと私は思っている」 その方向がどうしたのと聞いた咲夜子に、波瑠は驚くべきことを口にした。 「死の国では、陽を背中にして洞窟に入った者と死者が出会えば蘇るという定めがあるの。ヘルンは、太陽を背中にして洞窟に入り、賽の河原に船から上がったの。ちょうどその時、私はヘルンと出会った……」 「あなたは、潜戸の……何なのです?」 「私は、四国の紫野村から潜戸に来た女」 『紅い髪の女』の前書きに書かれていたことと波瑠の話が結び付いた。 咲夜子は、震えとがちがち鳴る歯の音を止めることができなかった。 「あなたは……」 やっと喉から絞り出した。 薄笑いをした波瑠が言った。 「そう、そうなのよ。『紅い髪の女』は、一冊しか作られてはいないの。あなたを呼び寄せるために書いたもの」 「あの話は、本当のことなのですか」 咲夜子の声は掠れた。 「私はヘルンに頼んだのよ。私のことを書いてくれれば、元の人間になれるからと。でも、なぜかヘルンは書かなかった」 「でも、どうして私を……」 「あなたは美しいから、髪が黒いから、私の身代わりになるのよ。入れ替わるの」 咲夜子は叫んだ。 「いやっ、いやよ」 その声は、突然吹き始めた強い風に遮られ、僅かに小さく咲夜子の顔の周りを巡っただけだった。 波瑠は両手をうなじの辺りに手をやり、背中に流れる髪を後へ跳ね上げた。どこかで、そんな光景を目にしたような気がした。 咲夜子の目に映ったのは、薄明りの中に光った紅い髪だった。闇に吸い込まれるような激しい悪寒を背中に感じて、思わず咲夜子は吐いた。しゃがみ込み、幾度も吐いた。しまいには、口から出るものは何もなく、胃液が喉までせり上がるだけだった。 波瑠の手が肩にかかった。 「さあ、私と――賽の河原へ」 「いやあっ……」 立ち上がった咲夜子は、手に持っていた紅い鞠を波瑠に向かって、力いっぱい投げつけた。顔に当たって砕けた。 巻かれていた糸、いや、紅い髪が波瑠の顔に巻き付き、ガラスの破片が皮膚を切り裂き、鮮血が飛んだ。流れる血に波瑠の紅い髪と鞠の紅紐がべたりと貼り付いた。頭から流れる血が、波瑠の目に入った。 血に汚れた波瑠の両手が、咲夜子の肩を掴んだ。おぞましいほどにねっとりした粘液質の血が、咲夜子の肩から胸に流れ落ちる。 咲夜子は、あるだけの力を込めて波瑠の頭を右手で殴り付けた。咲夜子の手は、鋭い刃物になっていた。頭が割れ、血が噴き出した。 ぐぇっ――叫んだ波瑠を高波が攫った。 咲夜子は崩れ落ちるように膝をついた。雨が降り出し、重く厚い闇が石の柩のように咲夜子を包んでいた。 |